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第一話「檸檬」のバスボム【アロマのとびら】


 

本日の物語

梶井基次郎 『檸檬』


あらすじ

肺を病み、憂鬱に心を潰されそうになりながら京都の街を彷徨っていた主人公「私」。

ふと果物屋で目に留まったレモンを買い、その冷たさと香りに幸福感を感じます。

それは、『知識』に偏った世界を息苦しく思う「私」に

『五感のよろこび』を思い出させてくれるものでした。

やがて「私」は、レモンを小さな爆弾に見立てた小さな悪戯を思いつきます。

 

「物語と香り」をテーマにした講座シリーズ、

「アロマのとびら」を企画し始めたときに、

まっさきに思い浮かんだのがこの小説でした。




「言葉」の魅力のひとつに、

「表現を通して感覚を共有できる」という点があると思います。


「香り」はとても個人的な感覚です。

ひとりひとりの本能と感情に働きかける香りは、

形をもたず、ひとたびわたしたちの心を動かすと

空気の中にはかなく消えていってしまいます。


そんな「香り」を

「表現を通して感覚を共有できる」言葉ならば、

書きとめ、残し、伝えていくことができます。



言葉をこえて本能と感情に働きかける「香り」と

形がないはずの感覚を共有できる「言葉」が

手をとりあうように輝いて、

たった10ページほどに満ちている。


梶井基次郎の『檸檬』は、そんな短編です。



たとえば、

生まれてこのかた「レモン」という果物を見たことも食べたこともない人がいたとして、

その人がこの本を読んだとして、

きっと、未知のはずのレモンの香りがありありと想像できるんじゃないだろうか。

そんな気がします。


肺病を患っているはずの主人公が胸いっぱいに空気を吸い込む場面は、

自分の周りの空気も、レモン色にかがやいているかのような気分にさせられます。


 

それの産地だというカリフォルニヤが想像に上って来る。

漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が

断れぎれに浮かんで来る。

そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、

ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった私の身体や顔には

温い血のほとぼりが昇って来てなんだか身内に元気が目覚めて来たのだった。

 

私はカリフォルニアに行ったことがないのですが、

朝日の降りそそぐような澄んだ明るさが、目の前に浮かんできました。


「鼻を撲つ」という表現は、

キーンとクリアな、突き抜けるようなスピード感を

肌に感じるかのように伝えてくれます。


昔習った漢文が切れ切れに浮かぶというのも、

プルースト効果に代表される香りと記憶の深い関係を思わせる表現です。



レモンの精油は、柑橘類の中でも特に、

森林系の香りと共通の成分を多く含み、


そのため気分をリフレッシュしたいときや、

部屋の空気を爽やかに保ちたい場合によく用いられます。


「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた」というように気が重く、

肺の病で「ついぞ胸一杯に呼吸したことのなかった」という主人公には、

ぴったりの香りではないでしょうか。


鬱々としてい気分が元気に変わり、

「いいアイデア」を思いつくのもうなずるような気がしてきます。



アロマテラピーではしばしば

「自分の心身にとって必要な香りが心地よく感じられる」と考えられています。


さすれば『檸檬』の主人公は、

本能的にその香りと冷たさを求めていたのかもしれません。



理性と知識の世界に圧迫されていた彼が、

その冴え渡る香りに「感じることの喜び」を思い出す描写は、


鬱病での休職中に初めて精油に出逢い、

いろんなことを思い出した自分にも、少し重なりました。



さて、物語のラストに向けて、檸檬は

「鬱屈とした現実を爆破してしまう爆弾」に例えられます。


そして主人公はそれを、

「知識と理性の象徴」のような書店にこっそり仕掛けて帰るのです。


一方「アロマのとびら」ワークショップで、

この物語を読みながら作ったのはバスボム(BOMB=爆弾)。


「檸檬」は確かに美しい小説なのですが、

主人公の彼(とか休職中のひつじや)ほど思い悩んでしまう前に、

暮らしの中で「感じる喜び」に出逢えたら

きっと本当は一番いいと思うのです。


だから、

嫌なことがあった日はレモンのお風呂。

シュワっと軽く爆破しちゃってクリアに深呼吸。


明日はカリフォルニアの朝みたいに、

行ってきますが言えますように。



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